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歌と朗読と言葉をつむぐ*まほろカンパニー

朗読の妖精

ほろほろ日和Horohoro-biyori

ナメタケワスレタ

夜中に夫が突然叫んだ。

ナメタケワスレタヘェーノソー
な、何を言ってるんだ、あんたは!
いや、だからぁ、ナメタケワスレタヘェーノソー
はぁ?!

話は数時間前、私は武蔵坊弁慶について夫に質問していた。

あのさぁ、弁慶みたいにお坊さんでもあるし、武器を持って闘っても
強い人たちっての事って何て言うんだっけ?


結局そんなものに名前なんてないということで決着がつき、この話はそれで終わっていた。
ところが布団にもぐり込んだ途端、夫は何やら思い出したらしい。

ほら、あれ、何だっけ…忘れた…兵の僧と書いて…

と必死に私に説明をしかけた。

だが私の耳には「ほら、あれ、ナメタケワスレタヘェーノソー」としか
聞こえてこない。

この、あまりにもふぬけた語感と全く意味不明の日本語がやたらに可笑しくて
ヘェーノソーヘェーノソー」と言いながらしばらく笑っていた。

私は言語能力を司ると言われている左脳のネジが相当ゆるんでいるらしい。
言い間違い、聞き間違い、書き間違いでの失敗は数知れない。

以前歌っていたシャンソンのお店で「では、聞いてください」と言って歌い始めるところを、
もっときれいな言い方に変えようと頭でごちゃごちゃ考えていたために
では、聞かせてあげる、ます。」とやってしまった。

お客様に向かって「聞かせてあげる」とは言語道断の話だ。
その上とって付けたような最後の「ます。」とはいったい何なんだ。

す、すいません」とは言ったものの、この高飛車な間違いのせいで惨憺たるステージになった。

銀巴里という老舗のシャンソン喫茶でもやらかした。
パリの猥雑な町で生まれ育った娼婦の歌を歌います」と言うところを
パリの猥雑な町で生まれ育った娼婦が歌います」と言った。

すかさず客席から「そりゃ、あんたのことかい!」とつっこみが入り
え?ち、違います私、広島出身です」と訳の解らない訂正した。

しかし「パリの猥雑な町で生まれ育った娼婦の歌」を自分が歌っていたというのも、ちょっとすごい。

こうして笑っていられるうちは良い。
未だに思い出しただけで変な汗がでそうになる失敗もある。

そのシャンソンのお店は、私が歌い手としてデビューする以前からお世話になっていたお店だった。

女性オーナーは歌手でもあり、若手育成にかけては非常に厳しいことでも有名な人だった。
いい加減な態度でステージにのぞむと、即刻首が飛ぶ。

私はほとんど毎日のようにレギュラーで歌う機会を与えられていたが、戦々恐々。
叱られるのが怖いので、なるべく目を合わさないように大人しい人のふりをして過ごしていた。

ある日、オーナーのステージが始まる前にお客様から呼びとめられた。

オーナーに百万本のバラをリクエストしたいのですが

百万本のバラは当時とてもヒットしていたシャンソンだった。

はい、ありがとうございます

とにこやかに笑って、小さなリクエストカードに曲名を書いてオーナーに渡した。
ステージが始まりオーナーが一曲目の歌を歌い始めた直後に、ひとりのスタッフが
血相を変えて私の所へ飛んできた。

こ、このリクエストカード書いたの浜田さんですよね?

スタッフが振りかざす小さな紙切れを手に取って見た途端、私の全身から血の気が引いた。
そこには私の字でしっかりとこう書かれていた。

百万本のバカ

う…うそ…これ、私が書いたんじゃない
でも、これ浜田さんの字ですよね
あ…うん、え〜?な、なんかの間違いじゃ…

誰かが私を落とし入れようとしているのかとも思った。
だが、文字はボールペンで黒々と書かれ書き直された形跡はない。

たとえて言うなら一週間も餌を食べていないライオンの檻に入り、ニコニコ笑いながら
「バ〜カ!」と言って踊ってるような錯乱の極みの行為なのだ。

叱られた腹いせなら、もっと他に手がある。

寄りによって「バカ」と書いて渡すなんて。
しかも30歳過ぎた女が…

ここ暗いからさ、気が付かなかったかもしれないよ」先輩の歌い手が慰めてくれたが、
一曲目を歌い終えたオーナーがステージで言った。

リクエスト曲、百万本のバラを歌おうと思ったんだけど、バカって書いてあったからやめます

…終わった…

無意識とは、恐ろしい。

心にいろいろ溜め込んでいると、限界に達した時とんでもない形でそれが噴出する。
その後クビを覚悟で正直に謝ったら

あんた、普段からそう思ってるんでしょ

と憮然とした表情で言われたが、臆面もなく「バカ」と書かれた事をどう受け止めていいのか
ご本人も解らなかったらしく、うやむやになってこの話は終わった。

以来私は心に溜め込む事を止め、良いことも悪いこともなるべく口にするようにしている。

そうすると、こういった無意識の失敗は少なくなったが、余計なことを言い過ぎて失敗する
ようになった。

まったく、要領の悪い女である。

夫がテレビを見ながら、何かつぶやいている。

この、オオバクマコってさぁ
それ、大場久美子でしょ

似た者夫婦ってとこか。

(2002年夏記す)


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